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武田信玄(晴信)は、有名な戦国時代の武将、甲斐の守護大名であり・戦国大名です。

本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の傍系・甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家の当主で、諱(いみな)は晴信と称します。「信玄」とは(出家後の)法名です。

甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家の長男として生まれ、前代・信虎期には国内統一が達成され、信虎体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と五回にわたると言われる川中島の戦いを行ないつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大しました。晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没しました。

江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が広く浸透し、風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎(または甲斐の龍とも)と呼ばれ、強大な武田軍を率い上杉謙信の好敵手としてのイメージが形成されました。現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将の一人です。
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天文24年(1555)3月。信玄は、2度にわたり木曽を治めようと自ら兵を率いて鳥居峠を越え、薮原に至りました。

迎える木曽軍勢は地形の険峻な天然の要塞を利用し戦い、持久戦となりました。同年8月に至って、木曽家18代義康は木曽の安全を計り、和議を申し立てました。

信玄はその和睦をおおいに喜び、木曽家は源氏の正当にして高家なることを尊重し、息女万里姫を19代義昌の元に嫁がせて親子の縁を結びます。
天正元年(1573)、信玄は伊那の駒場にて病没しました。義昌は、奥方万里姫とともに、信玄追弔のため長福寺に遺品を埋め、五輪の塔を建立し供養としました。 
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天正3年(1575)勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗し、武田の勢力俄かに衰えます。天正10年(1582)1月、真理姫は義昌離反を兄・勝頼に内報します。勝頼は大いに怒り木曽へ部将を派遣し攻めるも、義昌はこれを鳥居峠で破ります。2月には勝頼自身出兵し、再び木曽・織田連合軍に敗れ去りました。ついで甲斐を攻略され、部下将兵も離反し勝頼天目山で自刃し、武田氏ついに亡ぶこととなりました。天正18年(1590)年木曽は豊臣秀吉領となり、木曽氏は下総網戸へ、わずか一万石の領主として移封されたのです。慶長元年(1596)義昌の長子義利(20代)は、暗愚のため木曽家は家康により没収され、お取潰しとなる。真理姫は、三男三女の母となっていたが、末子義通(義一)をつれ、木曽町三岳野口の上村作右衛門に身をよせ、隠棲しながらも、木曽谷の士豪にはかり、木曽家再興を念願したが、時代の流れは大きく変わり、果せませんでした。正保4年(1647)7月7日真理姫は98才の長い一生をこの地に終えたと伝えられています。